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十姉妹

幼い頃、玄関でジュウシマツを飼っていた。両親にとっては、子供の情操教育にと思ったのだろう。4、5羽いたので特に名前も付けず、幼い私は小さくて地味なその小鳥が十姉妹ということもわかっていなかった。ある日、一羽が動かなくなっているのを見つけた。母に報告すると「死んじゃったんだね」と言って、布にくるみ何かの箱に入れて、一緒に庭の隅に埋めた。墓標はたてなかった。土に埋めるということを、タネや球根でしか知らなかったわたしは、母に「この小鳥はどうなっちゃうの?」と尋ねた。母は「死んでしまったので、土になるんだよ」といった。私は、埋められたその小鳥から花が咲かないことを知った。
その後、カトリックの幼稚園に(ただ自宅から近かったという理由で)入園した。園内に御御堂(おみどう)と呼んでいたちっちゃなちっちゃな教会があり、幼稚園児サイズの膝をつくクッションのついたベンチが並んでいた。正面には十字架に架かるイエス様がおられ、その隣にはマリア様の御像(みぞう)がおられた。毎週水曜日にはどこかの教会からパードレ(神父様)がおいでになって、お祈りを捧げた。難しい教義は習わなかったが、お祈りと「人の罪をあがなう」ということを知った。
5歳の時、母方の祖父が亡くなった。遠く離れて育ったので、祖父との思い出は少なかった。あわてて帰郷する両親につれられた私は、顔に布を被せて寝ている人をはじめて見た。その横で泣く祖母と母、伯母たちを見て、これは哀しいことなのだと思った。
出棺の直前、親戚一同が棺に花を捧げた。孫の中で最も幼かった私は、多くの伯父や伯母の後ろでただ立っていた。すると伯父が(どの伯父だったのだろうか)私を抱き上げて「じいちゃんの顔をよう見ておきよ。もう会えんのじゃ」と言った。私は抱き上げてもらっていることに遠慮してしまい、本当は見えていないのに「じいちゃんの顔が見えた」と嘘をついた。
私は焼き場には連れていかれなかった。祖父は小さな白い箱になって帰ってきた。母は「よう可愛ごうてもろうた。頭を撫でてくれたり、赤ちゃんの時に抱いてくれた、じいちゃんの手のお骨をありがとうと言って拾ろて来たよ」と言った。私はお骨を拾うということが理解できなかった。

今、あの時伯父に抱き上げてもらいながら嘘をついたことを、とても後悔している。

動かなくなって土に埋められる小鳥、祈るということ、顔に布を被せ「お骨」になるということ。そういうことを積み重ねて、私は命ということを知った。

きちんと話してくれるおかあさんはすてきです。

しあわせは、今生きているということ。
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by sally_brown | 2004-06-12 19:32 | いのち | Comments(0)

a warm puppy, knowing who you are, being glad you're you.


by sally_brown(さり)